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磐井一族七百年物語

 投稿者:ウンボパ  投稿日:2014年 8月18日(月)20時46分38秒
返信・引用
  ここ5年ほどの八女古代史研究の区切りとして、
渾身の物語。

543

 
 

「八女古代史」あらすじ

 投稿者:ウンボパ  投稿日:2014年 8月 2日(土)23時42分3秒
返信・引用 編集済
  ①高天原にボワーッと神々が現れては消える(第一期日本)
 大陸から難民がちょくちょく渡って来る状態

②最後に現れたイザナギとイザナミの夫婦が日本の島々と地上の神々を生む(第二期日本)
 磐井族(イザナギ)と渡来人(イザナミ)が協力して有明地方を開墾し、
 有明王「磐井」が日本各地に開拓団を派遣し(天孫降臨)、
 連合国家「和国」が誕生した状態

③イザナミと離別したイザナギがアマテラスとスサノオとツクヨミを生む(第三期日本)
 連合国家「和国」の内部で離合集散(倭国大乱)が起こり、
 戦乱を制した奈良王朝、出雲王朝、筑紫王朝の三国時代
 奈良王アマテラス、出雲王スサノオ、筑紫王ツクヨミは
 共に「和国」の教育機関で学んだ磐井(イザナギ)の兄弟弟子

④スサノオの娘婿が開拓した国をアマテラスの孫に譲り、奈良で建国を宣言する。(第四期日本)
 出雲王朝が奈良王朝に併合され「大きな和国」=「大和」が誕生、
 筑紫王朝の「和国」と奈良王朝の「大和国」が並立する状態

⑤天下分け目の戦い「磐井の乱」で日本が統一される(第五期日本)
 終戦交渉において磐井が建国した「和国」の建国精神を尊重して引き継ぐことを条件に
 筑紫王朝の政治体制をそっくり奈良王朝に移し、筑紫王朝のコピー国家「大和朝廷」誕生
 

Re: 倭の五王

 投稿者:ウンボパ  投稿日:2014年 8月 2日(土)21時59分38秒
返信・引用
  > No.50[元記事へ]

筑前住民さんへのお返事です。

面白い!
実に面白い!
その辺のこと全然弱いのでもっとお聞きしたい!
 

Re: ご挨拶

 投稿者:ウンボパ  投稿日:2014年 8月 2日(土)21時53分38秒
返信・引用 編集済
  > No.49[元記事へ]

筑前住民さんへのお返事です。

最近はフェイスブックで服部夏樹の名前でいろいろ書いてます。
八女の古代史を思いっきり我田引水で小説にしようと思ってます。
是非FB友達になってください。

できれば古代史の話で飲み明かしたい!
 

ご挨拶

 投稿者:ウンボパ  投稿日:2014年 8月 2日(土)21時49分14秒
返信・引用 編集済
  筑前住民さん、ご挨拶 遅れてごめんなさい。
「八女大国」がまじめに支持されるのは初めてです。
古代史にちょっと詳しい人達には笑い飛ばされるので最近は地元八女のど素人相手にしか話しません。

534

 

倭の五王

 投稿者:筑前住民  投稿日:2014年 7月10日(木)06時01分29秒
返信・引用
  倭王武は中国(宋)から安東大将軍に任じられましたよね。また、開府も正式に認められた。それが太宰府ですが、こういうことを倭王武の子孫や倭国家の民は後々も長く誇りにしたに違いありません。
この外交の背景は、倭の主敵は高句麗であり、宋などの中国(南朝)は北方の鮮卑などの侵入に悩まされてたってことですね。鮮卑は倭の敵でもあったわけです。
中国は滅亡し、鮮卑人が支配し、その隋が中国統一してしまった。

鮮卑人は北魏の頃すでに漢人化政策をやっており、漢人でないにもかかわらず漢人になりすました。黄帝の末裔を自称で詐称しだした。道教の影響です。
これと非常によく似た現象が、天武朝の日本で起こる。

天皇家を倭人ではない異民族だと考える人の多くは、天智をそう考え、天武を倭人だったとみたがるけど、いかがわしいのはどう見ても天武です。
「倭人じゃないなら、倭人だったとしても、なぜ先祖を九州だとして、それを天孫族と呼ばせて本州で選民思想を誇示したのかな?そのわりには本州の伊勢神宮などを崇めるのに、九州を聖地として見てない気がする」
って思うでしょう?異民族、異人種だからなんです。漢人ではない鮮卑人が、漢人の地である中国を支配するために、正当化させるために自身を漢人だと、しかも由緒正しい漢人の末裔であるかのように嘘を広めた手法とまったく同じ。天尊は道教の元始天尊、天皇の号も道教。真人や道師(道士)など、天武がやったことは。狛人(高句麗)です。
文鮮明の統一教会はキリスト教を悪用し、自身をキリストだと言って、コリアン民族(狛人)を聖なる民族だと宣伝。日本人をサタンの民族と呼ぶ。しかし、「勝共連合を!」と呼びかけ自民党の有力議員を手懐けて日本の政権に食い込んだ。アメリカなどでも同様に。しかも欧米では日本人を詐称して寿司屋などの日本食レストランを経営しまくる。古代の文鮮卑が天武。「反天智連合を!」と呼びかけ、まんまと倭を乗っとった。

倭の衰退・混乱時、本州に狛人が大量に移住し、東本州の倭人を襲って勢力を広げた。襲われた側の倭人は当然反発する人が多い。これが蝦夷。蝦夷(倭夷)から奪った土地に狛人は根を張り、だから東日本には狛(こま、高麗、巨麻)を示すものが多いし、壬申の乱で天武方には東から多くの軍勢が申し合わせたように馳せ参じましたよ。八角の墓も東に多い。もっと多かったのでしょう。
 

ご挨拶

 投稿者:筑前住民  投稿日:2014年 7月10日(木)05時05分13秒
返信・引用
  皆さんはじめまして!
僕は筑後でなく筑前地方の在来ですが、筑紫国人ということで仲間に入れてください。

僕も卑弥呼の時代の邪馬台は、「八女の台」と同じことだろうと考えます。邪馬国の一部が倭連合の政治の中心として肥大化し、そこを邪馬国の台と呼んでたのが区別され、邪馬台国と呼ばれるようになったと。読みは呉音でヤメダイですよね。
隋の使者には邪靡堆と聞こえたので隋書にはそうあります。隋の使者は漢音の感覚だったから邪馬台をヤバタイだと思いながら倭へ来た。現地の倭人に尋ねると、「ヤバタイ?さぁ、もしかしてヤメダイのことじゃないですか」と。それをヤビタイと聞き取った。
これがヤマトであり、ヤマタであり、ヤタであり、ハタである。

後に本州を制圧した狛人は大倭/大和をヤマトと読ませ、倭人になりすまし、我々が倭の正統な支配者だと宣伝した。それが天武でしたが、大倭は倭の大王ではなく、地方行政や地方の経済を監督してた役人なんですね。大倭は魏志にそのような役割として記されてます。
邪馬台連合が本州に勢力を広げ、今の近畿地方のどこかに大倭が本州総督府としてあってもいい。でもそれがヤマトではなかった。異民族は、倭の役人もヤマトと呼んだ。今にたとえるなら、大阪の橋下を気に入らない日本人は「あの橋下め」や「大阪市長め」と呼ぶ。でも気に入らない外国人は橋下を「日本人め」と呼んだりするでしょう。

新羅、百済、高句麗が強大化し朝鮮半島情勢が緊迫化して、筑後地方より筑前地方が重要になった。7世紀に那(奴国)へ遷都したかもしれません。大津宮、淡海(近江)です。
記紀の神話のイザナギやアマテラスなどは、本州の狛人勢力が筑前地方の歴史を盗んだもの。秦氏、八幡は、かつての邪馬台連合の主都民(邪馬台人)、つまり筑紫の人々であろうに、倭人になりすました狛人らは逆に彼らを「渡来人」だと宣伝した。

なぜ秦(シン)がハタと呼ばれるのか?なぜハタは秦と書かれるのか?
隋書に倭の王国は秦だったとあります。隋の使者は倭の天子を皇帝だと認められない立場だから王国と表現しても帝都だった。この頃、倭の大王は初めて天子を称した。倭の皇帝の始まり、始皇帝で秦。邪馬台(ヤメダイ)は邪馬都(ヤメト)になった。
「鮮卑人の建てた隋より、我々こそが真の中華である!」
という意気込みでした。これを裏づける論拠はたくさんあります。
 

倭人の共通の祖先が江南人

 投稿者:ウンボパ  投稿日:2014年 2月21日(金)23時30分30秒
返信・引用
  南朝鮮、日本の倭人の共通の祖先が江南人であることを示す記述があったので、紹介したい。

>中国の長江下流域には古来倭人とよばれる人たちが住んでいました。。前掲の『川海経』、『漢書』(一世紀成立)、『論衡(ろんこう)』(一世紀成立)そのほかの書によると、長江南部のほかに、朝鮮半島南部、日本などにも倭人はひろがっていました。倭人ということばの意味は、背がまるくてひくい人とか、中央から遠い土地の人とか、従順な人とか、もともとあまりよい意味ではありませんでした。
たとえば、『漢書』の顔氏古注には「交趾(こうし)(現在のベトナム)から会稽(かいけい)(現在の浙江省)に至る七、八千里のあいだに、百越が入りまじって住んでおり、それぞれに違う姓をもっている」と説明されています。長江にそって南側の地に多くの越人が住んでおり、なかでも下流の江南地方に住んでいた人々がとくに倭人とよばれていたことになります。(諏訪春雄通信100)リンク

>越人はことに航海術にすぐれていた人たちでしたので、すぐ朝鮮にわたり、その南の端に自分たちの故郷と似た風土の土地を発見して住みつき、さらに環境条件のよく似た日本へもうつり、海岸低地に居住したとおもわれます。また、紀元前三三四年ごろには、越が楚によってほろぼされました。このときにも大量の越人が、朝鮮半島や日本へわたったとみられます。このように、朝鮮半島や日本への越人の渡来幾次にもわたっていました。これが、朝鮮や日本の倭人でした。(同上)

彼らは2000年前以前からすでに竜骨船と呼ばれる、帆船を操縦し、かなり広域の航海を可能にしていたようである。(春秋戦国時代には外洋航海の記録がある。)つまり弥生前期のみならず縄文期にも日本に移り住んでいた可能性もありえ、縄文文化に影響を与えた可能性を検証する必要がある。しかしながら少なくとも(朝鮮経由か直接かはともなく)、稲作はおそらく彼らがもたらしたものだろう

また江南人と倭人との習俗の共通性が以下のように記録されている
(一部記述に疑問も感じるが、原文のまま投稿する)
>一般に『魏志倭人伝』とよばれる資料には、倭人の習俗がかなりくわしく記載されています。
海の魚をとって生活し、航海にすぐれ、目立つ習俗として、文身、断髪、蛇や竜にたいする信仰、貫頭衣(頭からすっぽりかぶって顔を出す袋型の衣装)、航海における持衰(じさい)(犠牲者をあらかじめえらび、航海がうまくゆけば手厚くもてなし、うまくゆかないとすべての責任を負わせて殺害する習俗)、双系的親族組織(父方、母方双方の血筋をたどることのできる親族制度)、歌垣や妻問い婚、一夫多妻制、ヒメが聖(神祭り)を担当しヒコが俗(政治)を担当するヒメヒコ制、王殺し、などをあげることができます。これらは、いずれも越人の住んでいた中国南部、ことに江南の習俗とかさなっています(大林太良氏『邪馬台国』中公新書、一九七七年)。(同上)

>中国古典の「荘子」・「韓非子」・「淮南子」などに散見される、越人の生活風俗は、河川や海原に棲息するサメやワニからの危害を避けるために「断髪文身」、つまり頭髪を短く切り、体に刺青をしていた。また、海にもぐるだけではなく、田植や草取りのためにも裸足の生活を送り、日常生活に舟は生活に欠かせない道具だった。 (長江文明と古代日本-黒潮をめぐる舟の文化
>リンク

464

 

「古事記」のホンネ

 投稿者:ウンボパ  投稿日:2014年 2月19日(水)00時25分32秒
返信・引用 編集済
  「古事記」は大和朝廷を正当化するために書かれた「勝者の歴史書」と言われています。
だからいろんな嘘が書かれて信用できないとも言われますが、
正当化するためならば、「奈良の地に神様が天下って各地の豪族を征伐し、奈良の地で日本建国を宣言した」としたいのがホンネのはずです。
しかし実際の内容はちがってて、九州に神様が天下ってその孫が東に移った後、奈良で日本建国を宣言します。
また出雲でも天の神と在地の神がすったもんだします。
なぜこういう「大和朝廷の祖先が九州だ」なんてまだるっこい内容になったのでしょうか?
たぶん、7世紀、古事記編纂当時は大和朝廷が九州と出雲に何がしかの気遣いをする理由があったに違いありません。

459

 

童男山古墳の徐福伝説、岩戸山古墳に思う.......

 投稿者:ウンボパ  投稿日:2014年 1月20日(月)19時17分0秒
返信・引用 編集済
  司馬遷の『史記』の巻百十八「淮南衝山列伝」によると、
秦の始皇帝に、「東方の三神山に不老不死(長生不老)の霊薬がある」と具申し、
始皇帝の命を受け、3,000人の若い男女(童男童女)と多くの技術者(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方に船出し、「広い平野と湿地(平原広沢)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。

「不老不死の霊薬」は「アルカリイオン水」だと思います。
世界中の「奇跡の水」と言われるものはほとんど「アルカリイオン水」だし、実際我が家の神棚の水もアルカリイオン水で榊の葉は半年以上枯れません。
火山地帯に産出するアルカリイオン水は火山のない中国大陸には産出しないので秦の始皇帝にとっては霊験あらたかだったににちがいありません。

「広い平野」は筑後佐賀平野、「広い湿地」は有明海沿岸だと思います。
徐福は九州に入植し、開拓地に必要な技術を調査後、一度中国に帰っています。
「アルカリイオン水」を手土産に交渉して、一次隊で不足した干拓技術者と優秀な移民を引連れて再度渡ってきました。
有明海を干拓して入植地を新たに造り、在地の人達と争うことなく新天地を創って入植したわけです。

紀元前後数百年間、九州は徐福がもたらしたハイテク技術やハイテク素材、五穀の種、占星科学技術などにより大発展します。しかも大きな戦争がなく経済も大発展し、高度な交渉術で鹿児島,熊本,大分,宮崎など周辺の未開族とも上手につきあい、「九州王朝」を築きます。
紀元前2世紀から紀元2世紀にかけての九州大発展の中心地が八女地方だったのです。
矢部の釈迦岳に登ると九州、有明海すべてが見張れ、九州王朝の都はここしか考えられません。
そして九州王朝最後の王、ラストエンペラーが岩戸山古墳の主、八女のヒーロー、「磐井」なのです。
300個以上の八女古墳群の主はほとんどが磐井一族と言われています。

童男山古墳の徐福伝説によると、
難破した徐福船団の一部の童男童女が八女族に助けられてこの地に手厚く迎えられたそうです。
徐福の童男童女は超高度文明人の中から選りすぐられた超高等種、彼らは農業、牧畜、土木、占星科学を使って神の業と信じられていた自然や生命を制御してみせました。
「神の業」をやってのけるわけだから、天の国からやってきた「神の子」と考えられても不思議ではありません。
地元の乱暴者が戦でのし上がっても王としての尊敬は集めにくいけど、徐福の童男童女が、天から遣わされた「神王」として祀り上げられても不自然ではありません。
倭国大乱で諸国のどの王が立っても収まらなかった時、「卑弥呼」を立てて収まったという例もあります。
磐井一族は徐福の童男童女の末裔かもしれません。
 

「古事記」の著者が書きたくても書けなかった日本(4世紀頃)

 投稿者:ウンボパ  投稿日:2013年 9月20日(金)14時36分18秒
返信・引用 編集済
  「古事記」の著者が書きたくても書けなかった日本(4世紀頃)
九州王朝、出雲王朝、近畿王朝、言わば日本の三国時代。

近畿王朝は東九州、瀬戸内、近畿を武力でまとめあげたタカ派の後進国連合。
九州王朝は先進国同士が緩やかに連合した徐福族保守派の連合国。
出雲王朝は強力なカリスマ祭祀王の「出雲王」による豊かな独裁国家。

この頃中国大陸も朝鮮半島も分裂紛争中で、
大陸情勢に敏感な徐福族の伝統が裏目に出て、九州も出雲も大陸が戦乱の間は日本侵攻はないとタカをくくっていた、言わば「平和ボケ」。
近畿王朝はそんな平和ボケの保守派爺さん達に愛想つかして東九州、瀬戸内、近畿を武力統一した好戦派。
まずはお隣の出雲征伐、百戦錬磨の近畿軍と平和ボケの出雲軍、結果は見えています。
出雲を併合して、特産の夢の超合金「鉄」を手に入れる。
「鉄」を手に入れた近畿軍は鬼に金棒、さらには高度文明を持つ九州王朝をも併合します。

出雲軍、九州軍が一連の戦いで壊滅したわけではありません。
近畿軍の目的は「大陸からの侵攻に備える国家統一」
内戦でむやみに兵力を消耗したくはありません。
国力温存のために軍事的には中途半端な「併合」の形をとったわけです。

この中途半端ゆえのすったもんだが古事記の中に神話として盛り込まれています。

360

 

「大和」について考える

 投稿者:ウンボパ  投稿日:2013年 9月13日(金)23時25分33秒
返信・引用 編集済
  大きな和と書いてヤマトと読みます。
「大」を「ヤマ」、「和」を「ト」と読む例は他にありません。
つまり「当て字」です。

なぜ大事な大事な国名に当て字を使わねばならなかったのだろうか、
 

エピローグ

 投稿者:ウンボパ  投稿日:2013年 9月 2日(月)12時43分58秒
返信・引用 編集済
  中華帝国に諸事情がバレ始めて「ヤベ国」が使節を送った頃から瀬戸際外交も陰りが生じます。
各国が豊かになり、人口が増え、貧富の差が拡大し、戦の規模も小競り合いどころではなくなります、魏志倭人伝に書かれてる倭国大乱です。
「緩やか連合」を維持したい古い保守派と「中央集権国家」を作りたい若い改革派が対立。
各国の改革派の若者が集まり、ついに新女王「トヨ」を擁立し、九州から各地を平定しながら、
日本最高の天然の要害「奈良盆地」に新国家「ヤマト朝廷」を樹立します。
「古事記」に書かれている「神武東征」です。
新国家は各地の「改革の志士」が集まった寄合所帯、
明治政府が薩摩長州土佐肥前の寄合所帯だったのと同じです。
新国家は中央集権化の改革を着々と進めますが、
最後に、どうしても邪魔なのが依然として勢力を維持し続ける保守派の巣窟「九州王朝」。

そしてついに西の「九州王朝」と東の「ヤマト朝廷」の天下分け目の決戦が起こります。
日本書紀に書かれている「磐井の乱」です。
「ヤマト朝廷」は「九州王朝」から分かれて別の土地で大きくなったいわば身内、
九州王の「磐井」とヤマト軍大将の「物部麁鹿火」は同じ釜の飯を食った仲間だったそうです。
明治維新、西南の役で、九州軍の大将西郷隆盛と政府軍大久保利通が旧知の仲だったのと似ています。

330

 

あとがき

 投稿者:ウンボパ  投稿日:2013年 9月 1日(日)12時29分6秒
返信・引用 編集済
  教科書で習う日本の歴史は6世紀以降です。
それ以前は「弥生時代」又は「神代の昔」とひとくくりにされます。
一方、世界の歴史は紀元前2千年から事細かに語られます。
世界の歴史は4000年で日本の歴史は1500年、そんなわけないはずです。

712年に書かれた日本唯一最古の歴史書「古事記」によって、
過去数千年の歴史事実が神話としてかき消されてしまいました。
しかし、「古事記」によって日本列島の住人は全て単一民族の親戚になり、
以後日本外交は一枚岩で行われ、日本の国防にとって大きな功績です。
過去2000年間大きな対外戦争は日清日露、太平洋戦争だけです。
「古事記」の神話の矛盾を面白おかしく過去の民族紛争や皇族の内紛の事実に見立ててはいけないと思います。
日本の国内平和の為には「古事記」の神話を否定してはいけないと思うのです。

よって「九州王朝八女大国」に書かれたことは事実であってもフィクションです。
断定的に書いてはいますが、あくまでもフィクションです。
日本の平和のためにフィクションとして読んでください。

327

 

エピローグ(その後の章)

 投稿者:ウンボパ  投稿日:2013年 8月31日(土)16時58分42秒
返信・引用
  徐福族の理想、「専守防衛の緩やか連合国」の瀬戸際外交も何世代も続くうちに陰りが生じます。
各国が豊かになり、人口が増え、貧富の差が拡大し、戦の規模も小競り合いどころではなくなります。
世代交代を繰り返すうちに戦乱の悲惨さを知る人が減り、
「強力な中央集権国家を作るべきだ」というタカ派の意見を抑えられなくなります。
ちょうど明治維新、各地の勤皇の志士達が暴れだす状況と似てくるわけです。
「宗主国をコロコロ変えるなんて生ぬるい!」
各地のタカ派(中央集権の志士)が日本最高の天然の要害「奈良」の地に新しく作った中央集権国家が「ヤマト朝廷」なのです。
 

プロローグ

 投稿者:ウンボパ  投稿日:2013年 8月31日(土)14時09分17秒
返信・引用 編集済
  時は紀元前中国大陸春秋戦国時代、新興国が出来ては滅び戦乱に明け暮れておりました。
孔子、孟子、老子など諸子百家と呼ばれる国づくりコンサルタントは引っ張りだこ。
諸子百家の中でも異色のコンサルタント墨子は各地の戦災孤児を集めて教育を施し、
弟子コンサル(墨家)として各地に派遣していました。
その教えは「非攻、専守防衛、兼愛」、万民平等の精神ですべての国が防衛に徹すれば戦はなくなる。
親を知らない孤児に親の愛を説く博愛精神は教えられません、親も他人も敵も味方も全て平等に愛する究極の「平等愛」を教えたのでした。
秦の始皇帝の焚書坑儒の嵐が吹き荒れる中、徐福は始皇帝が最も欲しがっている不老不死の薬を探すという名目で数百隻の大船団を貰い受けます。
その乗組員は選りすぐられた墨家のエリートの童男童女(若い男女)数千人、
その積荷は超ハイテク機機、ハイブリッド家畜と種籾。
いわばノアの方舟大船団が日本列島に向けて出発したのでした。

数百隻の大船団は散り散りのなって日本へ流れ着くのは百も承知、
出発にあたり、徐福は各船長に流れ着いた先では全員「徐福」の名を名乗り、
湿地帯に入植し、高度技術でその土地を豊穣の地に変え、徐々に在地民と癒合し、
理想郷を作ったあと、「徐福」をキーワードに各地の「徐福族」と連絡を取り合い、
「緩やかな連合国」を造ることをしめしあわせました。

323

 

瀬戸際外交

 投稿者:ウンボパ  投稿日:2013年 8月29日(木)21時40分15秒
返信・引用 編集済
  ある年、くじ引きで負けて宗主国になっちゃった「チクシ国」が代表として中華帝国に使節を送ることになりました。
超先進国の中華帝国の王が喜びそうな献上物など持ってません、ほとんど手ブラ状態。
地の果て海の果てから手ブラでやってきた未開国の使節に、
中華帝国はなんと鏡や刀や反物の宝物を大量に与え、倭国王の金印まで授けます。
その狙いはただひとつ「倭寇の取り締まり」です。

実は各地の海洋民の様子を身近に見て、倭寇が一番活発な時期に使節を送ってるだけなのです。

数十年後頃合を見て、次に宗主国になっちゃった「ヤベ国」が代表としてまた使節を送ります。
「こないだのチクシ国は力不足だったのでヤベ国がやっつけちゃいました、
こんどこそヤベ国がキッチリ倭寇を取り締まりますよ」
なんて調子のいいこと言ってチャッカリ宝物と倭国王の金印もらって帰ります。

徐福族の対中華帝国外交はこの繰り返し。

①中華帝国は海の果てからやってくる倭寇に手を焼いている。
②倭寇を取り締まるためには海の果ての倭国を占領しないといけない。
③しかし海の果ての倭国は小国が乱立してて占領するのに手間がかかる。
④とりあえず使節を送った国が一番強いだろうからそいつが国家統一した後に冊封するなり占領するなりして倭寇の問題を解決しよう。

「超大国」の思惑(①~④)を逆手にとったみごとな「瀬戸際外交」。
小国が乱立してるうちは絶対攻めてこない大国主義を逆手にとった専守防衛の知恵。

*********************************************************
「ヤベ国」の使節が中華王の前で国名と王の名を言上するとき、
称して曰く『八女大国日御子(ヤメタイコクヒミコ)の使いである!』と名乗りました。
その語音を聞いた書記官が「邪馬台国卑弥呼」と野蛮国向けの卑しい漢字を充てたのです。
つまり「邪馬台国の卑弥呼」の正体は「ヤベ国」の日巫女の職位にあった第8代八女津姫なのです。
*********************************************************

320

 

「九州王朝八女大国」第5章 「専守防衛」の知恵

 投稿者:ウンボパ  投稿日:2013年 8月28日(水)20時25分52秒
返信・引用 編集済
  弥生時代の九州にはチクシ族、イト族、マシラ族、ヤベ族、アソ族、クマソ族、ハヤト族、
サツマ族、ヒュウガ族、等などたくさんの豪族がおりました。
それぞれ川の上流に山間族、下流に海洋族がいて、徐福族は中流の湿地帯に入植し、
持ち前の交渉術と高度文明を使って巧みに山間族海洋族の中枢に入り込み、
各地域をひとつの「クニ」として成長させていきます。

チクシ国、イト国、マシラ国、ヤベ国、アソ国、クマソ国、ハヤト国、サツマ国、
ヒュウガ国、各国の中枢は徐福族で占められますが、徐福族は決して「王」にはならず、
在地の巫女を「女王」にして「クニ」をまとめます。
よそ者が「王」になるより地元でしかも女性が「王」になったほうが国は治まりやすいことを知っていたのです。

九州各国の中枢が徐福族で占められれば、
大きな戦をせず、交渉による「緩やかな連合国家」の完成です。
連合国家は国名すら不要、宗主国は適当にくじ引きでもして決めて、
平時はそこそこ仲良く暮らします。

強力な中央集権国家を作ってしまうと、侵略国は宗主国を狙って攻めてきます。
しかし、宗主国不明のアメーバみたいな連合国なら、
侵略国から見てどこを攻めていいかわからず攻めずらいわけです。

徐福族の理想「専守防衛」の知恵です。

317

 

「九州王朝八女大国」第4章 影の海軍倭寇

 投稿者:ウンボパ  投稿日:2013年 8月24日(土)21時05分0秒
返信・引用 編集済
  徐福族は戦争の悲惨さを骨身にしみて、日本で戦のない理想郷を造ろうと渡ってきた人たちです。その基本姿勢は「専守防衛」。
と言っても全く戦をせずに平和ボケしてしまったら防衛どころではありません、すぐ侵略されてしまいます。
小国どうし平時は小競り合いと交渉を繰り返しながら緩やかな連合を保ち、その小競り合いが軍事訓練になります、
そして有事(外敵との戦)においてのみ諸小国は都の女王を中心として一国にまとまり、一枚岩で戦うのです。
特に海辺の海洋族は連合なんてめんどくさいことせずに自由に暴れたい気性ですから、
日頃は好き放題にさせて有事の時だけ後方支援してやればとても心強い海軍になります。
徐福族はこの海洋族(倭寇)と緩やかに連合することで日本の本土防衛を実現しようとしたわけです。

308

 

「九州王朝八女大国」第3章連合国家

 投稿者:ウンボパ  投稿日:2013年 8月 3日(土)00時41分4秒
返信・引用 編集済
  海辺に流れ着き、持ち前の高度文明を使って内陸の原住民と融合し、
日本各地でクニの指導者となった徐福族は連絡を取り合って連合国家を造ります。
これが彼らの目指す理想国家の最終段階。
我の強い土豪の指導者が集まっても話はまとまらずすぐ戦になりますが、
戦争嫌いの徐福族の指導者が集まれば話はまとまり易い。
この理想国家は強力な中央集権の必要はありません。
平時は各クニの特色を生かした自治を行い、外圧が高まった時にだけ一枚岩で国防と外交を行うという緩やかな連合国家です。
日本列島は山紫水明、どこに行っても山と海とが近くコンパクトで、
たくさんの国がそれぞれ豊かな自治を行うのにうってつけ。
コンパクトな地形だから連絡を取り易く緩やかな連合国家を維持しやすい。
海に囲まれ、外圧は西の大陸方面だけ睨んでいればよく、
しかも大陸の中華帝国は全ての国を征服する覇権主義ではなく、衛星国を冊封する中華主義。
外交さえしっかりやれば戦をせずに国防ができます。
4世紀から5世紀の日本はその地の利を生かした強力で豊かな平和国家だったのです。
その強力で豊かな平和国家の首都は我が「八女大国」。
 

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